二神氏の発祥以来全国に拡がってきた二神氏ですが、調査基準としている「幕末・明治初年時点での居住地」 で見てゆくと、これまでに次の系譜が確認されています。
各地の二神系譜 現所在地 幕末・明治初年の地名
愛媛県 東予二神氏 西条市壬生川 伊豫国桑村郡壬生川村
楠二神氏 西条市楠 伊豫国桑村郡楠村
三津屋二神氏 西条市三津屋 伊豫国周布郡三津屋村
国安二神氏 西条市国安 伊豫国桑村郡国安村
菊間二神氏 今治市菊間町河内 伊豫国野間郡河内村
本島二神氏 松山市二神 伊豫国風早嶋二神村
吉木二神氏 松山市吉木 伊豫国風早嶋吉木村
片山二神氏 松山市片山 伊豫国風早郡片山村
柳原(土井)二神氏 松山市柳原 伊豫国風早郡
常竹二神氏 松山市常竹 伊豫国風早郡常竹村
小川二神氏 松山市小川 伊豫国風早郡小川村
客二神氏 松山市客 伊豫国風早郡客村
鹿峰二神氏 松山市鹿峰 伊豫国風早郡鹿峰村
中西二神氏 松山市中西内 伊豫国風早郡中西内村
波田二神氏 松山市波田 伊豫国風早郡波田村
高山二神氏 松山市高山 伊豫国風早郡高山村
才之原二神氏 松山市才之原 伊豫国風早郡才之原村
太山寺二神氏 松山市太山寺町 伊豫国和気郡太山寺村
上ノ谷二神氏 松山市高浜6丁目 伊豫国和気郡新濱村
港山二神氏 松山市港山 伊豫国和気郡新濱村
三津浜二神氏 松山市三津 伊豫国和気郡三津町
船ヶ谷二神氏 松山市船ヶ谷町 伊豫国和気郡太山寺村
吉藤二神氏 松山市吉藤町 伊豫国和気郡吉藤村
余戸二神氏 松山市余戸東 伊豫国伊予郡東余戸村
西垣生二神氏 松山市西垣生  
畑中二神氏 松山市平井町 伊豫国久米郡畑中村
藤原半町二神氏 松山市藤原町 伊豫国温泉郡藤原村
道後二神氏 松山市道後 伊豫国温泉郡道後村
小坂二神氏 松山市小坂 伊豫国温泉郡小坂村
坂本二神氏 松山市窪野町 伊豫国下浮穴郡窪野村
北方二神氏 東温市北方 伊豫国久米郡北方村
御荘二神氏 愛媛県愛南町御荘 伊豫国宇和郡御荘組
緑二神氏 愛媛県愛南町緑 宇和郡御荘組緑村
城辺二神氏 愛媛県愛南町城辺 宇和郡御荘組城辺村
一本松二神氏 愛媛県愛南町一本松 宇和郡御荘組広見村
高知県 檮原二神氏 高知県高岡郡梼原町 土佐国高岡郡上本村
小才角二神氏 高知県幡多郡大月町 土佐国幡多郡月灘村
大分県 豊後森二神氏 大分県玖珠郡玖珠町森 豊後国玖珠郡森村
豊後竹田二神氏 大分県竹田市 豊後国直入郡竹田村
熊本県 肥後二神氏 上天草市大矢野町上 肥後国天草郡上村
広島県 西条二神氏 東広島市西条町下見 安芸国賀茂郡下見村
これまでの調査解明は表面だけで終わっているのもあり分析が出来ていない系譜も多く残されています。
毎年「重点調査系譜」を未解明の系譜から優先して指定しているのは、系譜調査のきっかけを掴み、さらに深度化させるためです。
今後、未調査の系譜を拾い出し準備でき次第調査研究を進める予定です。
これまで一部調査研究されたのは次の系譜です。

東予二神系譜

 東予二神氏とは愛媛県の東予地方の中でも、旧周桑郡地区で現在の西条市に所属し幕末から明治初年頃に楠村、国安村、三津屋村と呼ばれていた地域にそれぞれ居住されていた三系譜の総称です。
 一方、未調査のため、本来なら存在していない前述の地域以外の東予地方に幕末、明治初年頃に居住していた二神氏が確認された場合やこの時代に他の二神系譜の存在が確認された場合の整理上の呼称です。
【会報『海の民 ふたがみ』第12号で詳細】



楠二神系譜

 楠二神氏は現在の西条市楠に居住してきた系譜です。この地は南北朝時代の歴史舞台となった世田山城祉や二神氏が長門国豊田氏の時代から崇拝する宇佐八幡神社を村の西方面に控えた楠村に発展して来ました。
1362(正平17)年、讃岐国の細川氏が世田山城を攻めた時、寺の一部を焼失した記録が残る道安寺を菩提寺とする楠二神系譜ですがこの時代の歴史的事実に繋がる系譜伝承がこれまでのところ未確認です。
 宗家の裏庭には60年程前に二神島の宇佐八幡神社から勧請したと伝わる二神社が建立されています。
 家紋は「織田瓜」で三津屋二神氏と異なっています。
 道安寺境内裏の二神墓地には古い時代の墓石が少なく、また道安寺の同系譜過去帳にも藩政時代以前の記録がないため今後の調査が待たれます。菩提寺は真言宗高野山派道安寺。神社・二神社。
【会報『海の民 ふたがみ』第12号で詳細】



三津屋二神系譜

 三津屋二神氏は現在の西条市三津屋に江戸時代初期から居住していた一色氏系譜に、風早地方の二神系譜出自の二神善右衛門が大阪の陣の経緯を経た後に養子縁組。一色家の再興をはかった後、二神姓に復帰、この地に居住して今日まで発展してきた系譜のことです。
 一色氏と二神氏との関係を記述している「一色家系図伝書略記」には当時の一色家を巡る系譜の状況が詳細に記載され、一方、片山二神文書に残る「一色又三書状」には天明年間の頃、三津屋の一色又三が知人の中川権平に先祖の二神善右衛門の出自系譜を問い合わせた内容が書かれています。
 今後、この二つの文書と、三津屋一色家の菩提寺、長福寺過去帳とを併せた総合的な調査が待たれます。
 現在三津屋二神氏は九州地域、関西、北海道地区で発展しています。家紋は丸に桔梗。菩提寺は長福寺(臨済宗妙心寺派)本源寺(臨済宗妙心寺派)。神社は宇佐八幡神社。
【会報『海の民 ふたがみ』第12号で詳細】



国安二神系譜

 国安二神氏は西条市国安に居住した系譜ですが、家紋が三津屋二神氏と同じ「丸に桔梗」紋であり、明治10年8月の畝順帳には二神嘉吉所有の水田が三津屋村に有り元々は三津屋系譜であったと思われます。
 しかし、菩提寺は国安村の寿聖寺でご先祖はここに祀られていて、墓地も寺の西方面にある村墓地にあります。どの時代に国安村に移ったのか未確認ですが「国安二神氏は桜井漆器の月賦販売を全国に拡大するため九州地方へ移住していった一族である」と地元では伝えられており現在では博多、太宰府、田川、関西地区等で系譜が発展しています。
 「国安二神氏のご先祖は山から木を切り出す仕事をしていたと聞いていますが事業に失敗したため国安を離れなければならなくなり当時最盛を極めていた桜井漆器を全国へ紹介し福岡地方へ移って行ったと聞いています」(同系譜の二神勇氏)
 今後は、いつ頃、誰の時代に三津屋から国安へ転居していったのか、菩提寺の過去帳が誰の時代から記載されているのか確認がされるとより明確になると思われます。
 家紋は丸に桔梗、菩提寺は臨済宗東福寺派寿聖寺。氏神様は三島神社。
【会報『海の民 ふたがみ』第12号で詳細】



菊間二神系譜

 菊間二神氏の先祖は、天正13年7月秀吉の命を受けて伊予国へ攻め入った小早川隆景の軍勢に高穴城で敗れ、高縄山系の山深い菊間最奥地、河之内に住み着いた二神氏の一族と伝えられています。
 豊臣方の攻撃に対して、高穴城で宇佐美、目見田、尾越の各氏と共に城を守った二神一族が、小早川隆景自らの一気攻めにより城内は防戟一方となり、河野氏の軍勢は激戦のうち撤退するに及び、逃げ落ちたと伝えられています。
 ただ、河野氏は小早川隆景の軍勢に抗戦をしながらも、小早川側は湯築城に拠る河野通直に対し親書を送り、恭順をすすめ、河野通直もこれを受け入れたため配下の各城は明け渡されました。
 二神一族などが拠った高穴城では激戦となり、最後は撤退しながらも、約百余人の戦死者が河野氏側に発生しました。
 菊間二神氏の系譜は今日では全国に拡がっています。 菩提寺は真言宗豊山派常光寺、氏神様は素我神社。
【会報『海の民 ふたがみ』第8号で詳細】



本島宗家二神系譜

 二神氏の系譜の中でも宗家中の宗家の系譜で「豊田二神嫡流系図」を所持しており、これまで二神種家から数えて20代続いています。
 3代目種直の時代、時の伊豫国守護であった河野通尭に誘われて正平22年(1367)河野氏の家臣団に入り、風早郡小川村宅並城に拠ってこの地域を本拠にし、宅並二神衆を組織しながら次第に勢力を瀬戸内海北方に拡げていきました。二神島を出てから種直 − 家直 − 家真 − 種 − 通範と5代に渡って伊予本土で活躍しましたが、河野氏滅亡後は一時松山藩士として勤めます。
 種長の時、藩主加藤嘉明の会津転封に伴い二神島に戻り大圧屋としての身分を確保しながら明治維新までこの地域の政務・漁業を取り仕切ってきました。
 菩提寺は真言宗豊山派安養寺、氏神様は宇佐八幡神社。
【会報『海の民 ふたがみ』第1号で詳細】



吉木二神系譜

 吉木は中島本島(忽都島)の北、西中島と呼ばれ海に面した地域にあります。
 系図によると戦国末期に活躍した二神通範の曾孫に種長・種興・種末と3人あり、種末の子として溝田家より重久が吉木に来て二神姓に改めたのは天正〜慶長の頃と思われます。
 吉本二神氏の活躍はそれより少し前、1582(天正10)年に二神修理進重成は河野・毛利と敵対する来島通総の配下として活躍しています。
 江戸期から明治にかけては、吉本の庄屋役や中島を中心に神社の社職を任めていますが、近世になって吉木系譜は大きく分けて4系譜に広がりを見せ、現在全国各地の各界で活躍しています。
 吉木二神氏系譜の菩提寺は神職の系譜もありますが、現在の吉木に居住する系譜の一つは真言宗豊山派真福寺、氏神様は五十鈴神社。              
【会報『海の民 ふたがみ』第2号で詳細】



片山二神系譜

 二神氏系譜の7代目で、中興の祖と云われる二神通範に通種と種範の二子があり通種は宗家を継ぎ、種範は風早二神氏の祖となりました。通種と種範の二人は秀吉の朝鮮出兵に福島政則傘下来島通総の指揮下で出兵しました。この時の記録を始め、藩政時代の同系譜の動きは「片山二神文書」に納められています。種範に三子あり長男種昌は柳原(土井)二神氏、次男種秀が種範の後を継ぎ片山二神氏、三男種成は常竹二神氏をそれぞれ継ぎます。種秀は柳原の東方1q位の小山の西南の地に屋敷を構えました。この地は片山村と呼ばれていたため、片山二神氏と云われます。           片山二神氏祖となった二神種秀は松山藩士として召し抱えられ家禄二十俵で出仕し、後を継いだ同系譜は後に松山城下にも居を構え発展する。同系譜の中には赤穂浪士で松山藩江戸屋敷で預かりとなった十人のうち四番小屋で最年長の貝賀弥左衛門友信の番人を務めた歩行二神十助がいます。
「片山二神文書」は昭和6年に東大歴史科の岸博士により収録され、現在は東大史料編纂所に影写本として保管されています。しかし原本は昭和20年7月26日の松山大空襲により朝鮮出兵時の伝来品とともに消失しました。
同系譜17代目種徳までは片山墓地、それ以降の人物は妙清寺に眠っています。
【片山二神系譜】菩提寺・臨済宗 善応寺 日蓮宗 法善寺 氏神様・高縄神社




柳原(土井)二神系譜

 一族間では土井二神氏と呼んでいますが、歴史学者、郷土史家は居住地名を取り「柳原二神氏」と呼んでいます。
 二神氏の7代目通範に通種と種範の二子があり、二人とも秀吉の文禄、慶長の役に従軍しました。片山二神文書には従軍の内容が詳しく記録されています。
 この種範が風早二神氏の始まりとされ、その子に種昌、種秀、種成の三人があり、この内、長男の種昌は柳原で大庄屋の任に就きますが、この系譜のことを土井二神氏と呼んでいます。そして、次男の種秀は松山藩士として召し抱えられ片山二神氏を、三男種成は常竹二神氏をそれぞれ名乗りました。
 土井二神氏の当主は藩政時代を通じて柳原の大庄屋を勤め代々牛之助の名前を襲名。本島宗家とも交流があり本島二神氏15代の種章の夫人には牛之助通晴の娘が嫁いでいます。
 松山藩役録には扶持米20口を持つ郷士として記録が残されています。菩提寺は日蓮宗法善寺、氏神様は高縄神社。  
【会報『海の民 ふたがみ』第1号で詳細】



常竹二神系譜

 常竹二神氏は現在の愛媛県松山市常竹地区に住み着いた初代種成から約10代に亘り続いてきた系譜です。これまでの常竹系譜は大きく分けて、宗家、鹿峰、大谷の三系譜がありますが、鹿峰系譜の所在がこれまでのところ確認されていません。
 「大谷家勤功録」には「二代目勘右衛門の嫡子権兵衛と申す者を鹿峰村へ別家させ、庄屋役を勤めた」とあり鹿峰村の最初の庄屋が二神権兵衛であったことは確かな事実で、その後も二神氏が鹿峰村の庄屋職を勤め、明治初期の最後の里正には二神常治郎が記録されています。
 それにもかかわらず今日その系譜の所在の確認が取れないことは、改めて系譜調査の困難さを示すものです。
 常竹二神氏についての理解をするために、はじめに「二神氏風早御三家略系図」と呼ばれる河野氏滅亡後における近世風早郡内の二神氏系譜の基本的理解をしておくことが重要です。菩提寺は日蓮宗積善寺、氏神様宇佐八幡神社
【会報『海の民 ふたがみ』第7号で詳細】



小川二神系譜

 小川二神氏は、宅並城麓の小川村を拠点にした二神氏で、かつて城主だった二神種直や家直、家真も居住していたのではないかと考えられる地域を中心にしてその足跡を残しており、小川二神氏の関係史跡などから宅並二神衆の一流であると思慮されている系譜です。
 1821(文政4)年に描かれた「風早郡小川邨地図」31戸の家には藩政時代になって帰農した小川二神氏の数家も描かれています。
 小川二神氏の系譜は現在小川村に住んでいますが古文書や系図などの史料が残されていません。しかし、宅並二神衆の墓石と見られる数々の五輪墓や小川村に二神氏が代々所有してきた土地や墓地などは、村中心部を流れる払川沿いの宅並城への入り口周辺にあり、その時代における風早郡小川村の一等地。上屋敷、岡ノ谷、下敷などの小字が残っています。
 また、代々家に伝わる中世古銭を所持していたり、伝承話としていくらかの武具のようなものが長櫃の中にあったことや、宅並城の麓で先祖が敵に斬られた場所などの話が断片的ではあるが残されています。菩提寺は真言宗醍醐派蓮福寺、氏神様宇佐八幡神社。
【会報『海の民 ふたがみ』第9号で詳細】


−地図−
宅並城趾



波田二神系譜

  波田二神氏の由来について記録され、これまでに確認されているものに明治19年6月に作成された『當家元祖縁起祭仏略記録』と表書きのある「波田系譜図伝書略記」が伝わる。これは同系譜の菩提寺、宗昌寺に残るそれまでの過去帳からの情報と、同家に伝わって来た伝承記録を同年に改訂し再編集したものである。
「波田系譜図伝書略記」によれば同家の元祖は、鹿島城代だった二神豊前ノ守家臣、二神新四郎道佐が元祖となっている。
 慶長5年(1601)関ヶ原合戦戦後処理の結果を受け、鹿島城主だった来島康親は豊後森への転封となる。この時、康親の重臣として来島氏を支えてきた二神一族は、主君の豊後森転封に同行した系譜と北条地区に残った系譜とに分かれた。北条辻村に帰農した辻二神系譜の一流で、文政8年(1825)藩命により波田村庄屋職に就いた系譜が「波田二神系譜」と呼ばれている。波田村とは、藩政時代、伊予国風早郡正岡郷地域7ヶ村の一つで、面積45町歩余りの小村である。
 文政8年、この村の庄屋職に就いた辻二神系譜の二神氏は、二神幸左衛門の嫡子、二代目小右衛門茂信でここから波田二神氏系譜の歴史が始まり、明治4年庄屋廃止まで代々庄屋職に就いてきた系譜である。
波田村最後の庄屋、二神義之は明治14年6月、菩提寺宗昌寺の梵鐘建立に当たり寄付金5円を寄進。これにより代々、院号と居士、大姉戒名を授かった。との記録も「波田系譜図伝書略記」に残されている。
 同系譜は今日まで約190年間の間に、宗家と分家の二系譜に広がり、明治初年、二神義之の義の一字を通字として今日まで代々名前に付けてきた。同系譜は現在松山市内で発展を続けている。



才之原二神系譜

   現在、才之原二神氏が居住する松山市才ノ原は旧北条市に属し、それ以前の藩政時代には風早郡正岡郷才之原村と呼ばれていた。才之原の地名の由来は定かではないが古くは「佐猪野原」と表現していたと云われる。が後に才之原となる(『新編温泉郡誌』大正5年3月15日発行)。また、「才ノ神が祭られていた原。また、サは狭いところ、イは井ですなわち、水路の意味とすると、狭い山間の川の流れている原、狭い山間の原とも考えられる」とある。(『北条市合併記念誌』平成16年11月発行)
 一方、「サイ」「才」「歳」 「賽」は境目を意味し「賽の河原」は三途の川のほとりにあり、この世とあの世の境目にある河原。「塞の神」(サイノカミ)といえば「道祖神」のことであり村々の境界に建てられ、村に邪悪が侵入するのを防御してくれる神様である。才之原は立岩郷と正岡郷の境目に立地していて、旧湯山村と才之原村が合併して才之原村となった。このような立地条件から村名が生まれたのかも知れない。因みに町名表示では旧北条市時代までは「才之原」と書いていたが松山市と合併した平成17年1月以降は「才ノ原」と表現している。
 明治11年に発行された『伊予國風早郡地誌』には、当時の風早郡85ヶ村についてその彊域 幅員 管轄沿革 里程 地勢 地味 税地 字地 貢租、戸数 人数 山、溝、橋、道路、社 学校、区務所 名勝 物産 民業の21項目について詳しく記録され、当時の村々の様子がよく判る資料である。
 それによれば才之原村については次のように報告されている。各項目の内で本稿に関係する、里程、字地、戸数 、人数、社、学校、区務所、物産、民業の九項目のみ紹介する。
 才之原村は元々正岡郷に属し、湯山村と才之原村と二つの村だったが何時とはなく正岡の名称が消えて両村が合同し才之原村になった。との事である。そして才之原村の中心地は字名古屋であることが判る。
 この才之原の地に二神氏が住み始めた記録は明確ではないが、上記『伊予國風早郡地誌』によれば湯山村と才之原村が合同し才之原村となったとあり、後述する湯山二神家墓地調査の結果、旧湯山村に明治19年迄居住していた二神系譜の墓地から300年前の人物が確認されているので江戸中期には湯山村に二神氏が存在していたことが証明される。
 『伊予國風早郡地誌』が編集された明治初年は「大区小区制」の時代で風早郡は殆どが大11大区となり才之原村は第5小区に編入され戸長が置かれた。そして才之原村の中心地は地誌に「字名古屋(宝郷、白津恵、三治山)ハ村ノ中央ニアリ・・・」と記述され「小区区務所村ノ中央字名古屋ノ内壱番地二神吉五郎持家ヲ仮用ス」と記録されている。つまり、才之原村の中心地、字名古屋1番地の建築物の所有者は二神吉五郎で、その建物を、明治政府の行政末端組織である第5小区才之原区務所として借用している。とする事実がここに記載されている。
 以上の事から幕末、明治初年の才之原村には湯山村と才之原村にそれぞれ二神氏二系譜が存在していたことが判明した。明治新政府が樹立されると、それまでの公租制度が「年貢」中心から「地租」中心に変り、土地には一筆ごとに地番を付し地目、地籍、賃貸価格を定めた。いわゆる地租改正である。庄屋制度から改正された戸長は、地主総代から収穫の請書を提出させた。
 二神吉五郎は、才之原村字名古屋1番地の建築物の所有者として明治9年に作成された畝順帳にも記載され、そこでの肩書きは「地主総代・二神吉五郎」となっている。才之原村の中心地に建物を所持し明治新政府の地籍制度、地租改正時代の公職である、地主総代としての重責を果たした人物である。
 また、才之原村の氏神様である荒神社の狛犬は明治13年に献納されているが、その世話人に二神吉五郎が関係したことが台石に刻まれた人物名から判断できる。
 ところがその二神吉五郎の足跡が今日の才之原村から見えてこない。才之原村の中心地、字名古屋1番地の建築物の所有者で地主総代の職責を果たした二神吉五郎の系譜は何処へ行ってしまったのか。これが大きな謎の一つである。
 また、隣村の波田二神系譜に「波田二神氏のご先祖である北条辻二神系譜の分流が昔庄屋職で立岩郷に移住して行ったとの云い伝えが残っている」(波田二神系譜・二神恵美子さん)との才之原二神氏の出自に関する伝承がある。
 立岩郷には十二か村あるがこれまでの所、才之原村以外に二神氏の存在は確認されていない。従って、波田二神系譜の伝承に残る「庄屋職で立岩郷に移住して行ったと見られる系譜」とは、現存する湯山二神系譜の二神哲夫家系譜であるのか、あるいは幕末から明治初期に存在し、地主総代を務め、荒神社の世話人も務めた二神吉五郎系譜であるのか今後の調査が求められる。
 因みに湯山系譜の二神哲夫家は明治末期から大正の始めに掛けて才之原村の要職、区長職に就いていた二神豊次を輩出している系譜である。



上ノ谷二神系譜

 上ノ谷二神氏は現在の松山市高浜6丁目(旧温泉郡新浜村上ノ谷)に住む二神 系譜で、元禄時代風早郡善応寺から移住してきた(系譜伝承)と云われる系譜です。
 上ノ谷二神系譜には大きく分けて苫屋系譜、新屋系譜、樽屋系譜の三系 譜がこれまでのところ確認されていますが、宗家と云われる苫屋系譜の情報が未確認のため310年前に風早郡からこの地に移住してきた動機が明確ではあ りません。 上ノ谷小山墓地の歴代二神氏墓は元禄6年に没した初代夫婦墓を始め屋根付き のいわゆる元禄墓。他の二神氏の藩政時代墓石にも名字が彫られています。 また、同系譜の菩提寺は法華寺で、風早二神三系譜(柳原、片山、常竹)の近 世菩提寺である日蓮宗法善寺とも共通項があり、今後の調査次第ではこの辺り の状況が風早郡善応寺から上ノ谷へ移住してくる動機解明に繋がるものと見ら れます。
【上ノ谷二神系譜】
菩提寺・法華宗 法華寺
氏神様・勝岡神社

【二神系譜研究会速報NO・19で詳細】



港山二神系譜

 港山二神氏と呼ばれる系譜は、「本島二神氏宗家系譜」のうち江戸中期に豊田氏を名乗って分家した系譜で、後に二神姓に復帰し二神島を出て松山市の商港三津浜港の対岸港山を居住地にした系譜のことです。
 本島二神宗家から豊田氏を名乗って分家したのは二神種友で豊田嘉右衛門と号しましたがその長男、八十郎から4代目の助十郎の弟茂七が豊田氏から更に分家して二神姓に復帰しそれ以来港山二神氏の系図は本家の系図とは枝分かれします。
 港山二神氏には伝来の系図があります。和紙に包まれ桐の箱に収まっていて、転写、執筆したのは本島二神氏宗家の二神種美氏で書き上げたのは明治23年4月30日。「二神八十郎養子種行の父母兄弟姉妹等を知らしむるため二神家本家の家系に依り透写し与う」と注記されています。系図は幅27センチの巻紙に墨筆で記され「豊田藤原氏子孫系図次第」で始まり全長6メートル。転写するのに数日を要し、見事な筆さばきで種美氏の教養が窺われます。
 港山二神氏初代の二神茂七は明治18年に87歳で没しました。従ってこの系図は彼の没後に書かれたことがわかります。
 そしてその子で明治41年に逝去した2世茂七に贈られたとみられます。
 その後を継いだ愛次郎は二神島の住民を大得意先とする船大工をしていました。
 二神茂七を港山二神氏の始祖とすると現在の当主二神康郎氏は5代目に当たります。
【会報『海の民 ふたがみ』第10号・役員のつぶやき欄に詳細】



船ヶ谷二神系譜

 現在の松山市船ヶ谷町三石地区に江戸時代中期頃から居住しているのが船ヶ谷二神系譜です。
 船ヶ谷二神氏の位牌で最古の年代は1781(天明元)年8月22日に没した人物で、裏書きには「与八の父」と記されています。この人物が船ヶ谷の三ツ石に居を構えた最初の人物で、初代源右衛門と見られます。
 同系譜の菩提寺は松山市本谷にある黄檗宗雲門寺です。雲門寺は中世時代に建立された寺で、旧記によれば河野通清が建立したと伝えられています。雲門寺が建っている松山市本谷は旧北条市に属し、藩時代は風早郡粟井郷本谷村字寺の内の地名で呼ばれていました。
 粟井郷の二神氏で雲門寺を菩提寺としている系譜は現在までのところ確認されておりませんが、近隣の客二神氏(真言宗蓮福寺)、常竹二神氏(日蓮宗積善寺)、小川二神氏(真言宗蓮福寺)、を見ても黄葉宗雲門寺を菩提寺とする系譜は見あたりません。これを中世の風早郡まで広げ雲門寺と関係深い臨済宗や寺の創建時の天台宗まで遡ってみると二神氏との関係が見えてくるかも知れません。菩提寺は黄葉宗雲門寺。
【会報『海の民 ふたがみ』第10号で詳細】



余戸二神系譜

 余戸二神氏は現在の松山市余戸中地域を中心に発展してきた系譜で、同家に伝わる文書には「本家風早郡二神丑之助ヨリ別家シテ同郡柳原二住ス。其後伊予郡余戸村庄屋役被仰付以後代々役名記之左之通」と記録されています。つまり余戸二神氏は「柳原二神氏」(土井二神氏)の別家で、通範の嫡子通種の系譜から分家した通林の第二子種盛の嫡子通忠(1661〜1757)を初代としています。
 また、同家「豊田藤原氏子孫系図・次第」には藤原氏を祖とし、後に豊田姓を名乗り二神氏となってゆく下りが書かれていますが、これは本島二神氏の所持する「豊田二神嫡流系図写」と一字一句遠いのない全く同じ表現で、系図に現れる人物も二神通範までは一人の違いもありません。この事実はどちらかの系図が原本として作成されたことを意味します。
 元禄年間に庄屋職についた余戸二神氏ですが、その後この地域で発展し幕末最後の庄屋は二神精一が勤めています。菩提寺臨済宗東福寺派善応寺。
【会報『海の民 ふたがみ』第3号で詳細】



畑中二神系譜

 畑中という地域は、松山市の東北東に位置し、伊予鉄道の松山市駅から横河原線の電車で約15分東にある平井駅の傍らにあり、近くを小野川が流れる田園地帯の静かな住宅地帯である。
 江戸時代後期には久米郡畑中村と称したが、明治になってから温泉郡小野村大字畑中と呼称するようになり、現在では松山市に併合(昭和36年12月15日)され、松山市平井町となっている。
 畑中二神氏に伝わる一通の文書がありこれには「元祖 二神系 風早城主 二神豊前守 嫡子 二神隼人助 次男二神孫右衛門 某末 」とあり、文書発行日付は 嘉永5年壬子文月24日となっています。この文書は当時、平井古市園の武智豊前守が畑中二神氏当主の豊助に宛てたもので、同時に当時畑中村に在住した3人の二神氏の名前を記しています。菩提寺は真言宗豊山派円骼宦B
【会報『海の民 ふたがみ』第5号で詳細】



藤原半町二神系譜

 藤原半町二神氏系譜は、現在の松山市末広町に居住していた旧松山藩士の系譜のことです。
 同系譜は末廣町が成立以前、藤原半町と呼ばれた頃からこの地に住居を構え、松山藩の小姓役として出仕。それ以前の出自については史料が無く不明ですが、藤原半町二神氏の最古除籍謄本、松山藤原半町、二神又太郎と銘の入った真鉄製の標札、藩政や時代から明治初期の古銭などは残されています。
 これまで確認の同系譜の方は広島市佐伯区にお住まいの二神洋臣氏のみで、今のところ半町二神氏の宗家は判明していませんが、菩提寺長正寺には二神氏歴代の過去帳が残されこれの調査が期待されます。菩提寺は浄土宗長正寺。氏神様は雄郡神社。
【会報『海の民 ふたがみ』第11号で詳細】



北方二神系譜

 北方二神氏とは愛媛県東温市北方に江戸時代中期頃移り住んだ吉木二神氏の流れを汲む系譜であることがこれまでに判明しています。これは2004年3月14日愛媛県温泉郡川内町北方の宝泉集会所で開かれた「北方二神氏ミニ学習会」で明らかにされたものです。
 北方二神氏宗家の繰り出し位牌「林覚道閑信士」の裏書きに記載されている「寛政八辰三月十八日 風早郡吉木邑 七郎兵衛」と「臨雪貞法信士」には「天明三卯十二月六日 風早郡吉木村 小三郎」とありこの繰り出し位牌の裏に記載されている内容の意味は、「この人物がこの年月日に風早郡吉木村でお葬式をしました」(岡之坊・神野住職)と云う意味であり、吉木村の菩提寺に過去帳の記録が残されている可能性もあります。
 北方二神氏の出自は江戸時代中期頃、吉木二神氏と深い繋がりの中から生まれた系譜であり、この地方の米は「北方米」と呼ばれ松山藩への上納米として納められていた事実から、米作りが目的で中島の吉木村から来たのではないかとの見方もあり事実は今後の研究調査で解明されます。菩提寺は真言宗善通寺派岡之坊。
【『二神系譜研究会速報』NO.18で詳細】



御荘二神系譜

 「二神はもと豊田姓を名乗り、長門国豊田郡(山口県)を領有して住んでいたが、豊田藤十郎種家の時、伊予国温泉郡二神島に移り、これより二神姓を名のり二神長門守種家といった。中世のころ伊予の河野の部将として、風早・男甲・女甲の城主となった。戦国の末ごろその子孫が戦いに破れ、御荘に来てこの地の豪族となったのである。」(『城辺町誌』昭和41年10月21日発行)御荘二神氏について公式にはこのように報告されています。
 ここで述べられている種家の子孫とは、二神氏4代目家直の弟家経が戦国時代末期に風早郡から宇和郡御荘地区に赴いたのを始まりとしたもので、その後、緑、城辺、一本松などで系譜が発展します。
 その三系譜を含む宇和郡御荘地区全体の二神系譜を御荘二神氏と呼びますが、種基の子正種が緑村で初代在郷代官と庄屋を兼務、緑二神氏を確立してからは狭義の意味で初代二神家経から種基までを御荘二神氏呼んでいます。
御荘二神氏はこれまでのところ三系譜以外での確認はされていませんが、旧宇和島藩御荘組の代官所は緑村に置かれたこともあり在郷代官の始まりから三代目まで二神氏が就き代官制度が変わり四代目の侍代官に引き継ぐまでの88年間その任に在りました。
 初代在郷代官の正種が緑村の庄屋職を弟の種通に譲り城辺村の庄屋として緑村を出て城辺二神氏を創設、末弟の正家が広見に出て一本松二神氏を創設して事実上御荘二神氏は緑系譜と城辺系譜、一本松系譜に発展して行きました。



緑二神系譜

 初代在郷代官の二神正種が緑村の庄屋職を弟の種通に譲り、城辺村の庄屋として緑村を出たあと、種通は緑村の庄屋の後を継ぎ緑二神系譜を確立、その子孫が緑村の庄屋を長い間勤めました。
 緑二神氏には次のような伝説が残されています。「二代目種通の弟に十兵衛盛種という人があった。人呼んで「猿猴十兵衛」という。緑村庄屋の二代目を継いだ。この十兵衛の家に猿猴皿があり、また、力が強かったのでこういったという。このえんこう皿は十兵衛盛種の妻で、世人ほ小板額と呼び強力であった。年とってから彼女を〈猿猴ばあさん〉と呼んだ。彼女がえんこうからもらったという皿を、十兵衛盛種が持っていたので、〈猿猴十兵衛〉と呼んだのだと、」城辺二神系譜に伝来する『二神外記』の「猿猴皿日記」中にこの事が書かれています。
 緑二神氏の菩提寺観音寺の墓地に万冶元戌年十二月二九日、空釦宗完坐元とあるのが二神十兵衛で、延宝三卯正月晦日、三鏡妙前大姉とあるのが十兵衛の妻の墓だと伝えられています。
 このように十兵衛盛種の子孫が代々緑村の庄屋をつとめ、緑二神系譜を確立しました。この緑二神氏のことを御荘二神氏の宗家といわれています。
 藩政時代の中ごろ庄屋を河野清之助(二神の分家)にゆずりました。
 明治になって二神精一が現在の豊田に出て住んだので、この地を二神の長門時代の姓をつけて「豊田」と呼ぶようになったといわれています。現在その子孫は神戸に移住しています。



城辺二神系譜

−城辺二神−
 御荘組の初代在郷代官だった二神正種が緑村の庄屋職を弟の種通に譲り、城辺村の庄屋として赴任、隠居したのは1688(元禄六)年のことで、これが事実上の城辺二神系譜の創設となります。
 正種が城辺村の庄屋としてその任務に就くまで城辺は伊達家家臣の知行地となっていました。正種の後城辺庄屋の二神系譜を継いだのは通直。その後も綱好−綱秋−綱修−綱方−具種−礼和−駿吉−春三郎−重成と継承されて行きます。
 第七代源三郎具種(又の名を十郎左衛門)の時、城辺一帯はイナゴの異常発生による大飢きんに見舞われたが、彼は住民に米を与えで救い、藩主は郷土庄屋格としました。
 第八代十郎左衛門深蔵は長州征伐に郷土兵98人をつれて、藩主の命に従い三机まで行きました。また、明治12年常盤城の掘を埋めて、現在の中町繁華街を造るのに功あるなど、郷土のために活躍しました。深蔵の弟、藤種(嘉)は『二神内記』『二神外記』を著し一族の歴史と歩みを内外に明らかにしました。                 第九代は次男の駿吉が継ぎ後に東京へ移住しました。実業界で活躍、第16回衆議選に愛媛3区で当選し政界にも進出しました。

−堀舎二神家(分家)−
 城辺二神系譜の三代目綱好の第三子に綱紀(伝蔵)がいて江戸中期の頃この人物が分家をして城辺に初めて商店を開業します。堀舎(ほりや)二神家の始まりです。
 堀舎二神家は文化人の家柄で、二代目綱定(永世)は御荘三歌人の一人と云われています。本居宣長の養子の本居大平の門人録にも名前を連ねていて、本居宣長の書等も数多く所有しています。
 また、四代目永胤(彦一)は、第1回の愛媛県議会に選出されていますし、明治初期に蓮浄寺川の川替えを宗家の二神深蔵と一緒に実現しました。
 永胤の弟、一治は医師となり緒方洪庵が作った大坂の適塾に入門。門人帳に名前が残されています。永胤のもう一人の弟、来三郎は松丸の庄屋芝家へ養子入り、末子の芝不器男は夭折の俳人として知られ昭和初期の俳壇に新風をふき込みました。
 五代目伝蔵(蘭画、碧堂)も歌人として知られ、長期間城辺町長に就任しています。伝蔵の弟範蔵は財界で活躍し、山下近海汽船の社長を歴任しています。 



一本松二神系譜

 二神藤種(嘉)が著した『二神内記』『二神外記』には御荘組の初代在郷代官だった二神正種の弟に正家(武右衛門)がいて後に一本松広見に二神系譜を創設したと伝えています。
 この跡を種則(孫右衛門)が継いだと伝えられますが三代目、四代目がまったく不明。
 そして五代目からは名前だけは判明しているもののその裏付けとなるものが少なく、『二神内記』には明治になった時に、新三郎という人物がいて、この家で新三郎は正家という人の位牌を祭っていることを述べていますので、糸口となる史料収集と分析解明調査が今後求められます。



檮原二神系譜

  高知県(土佐国)の二神系譜には二系譜あり、一つは九良右衛門を開祖とする幡多郡大月町の小才角系譜。そしてもう一つは尉右衛門を開祖とする高岡郡檮原町上本村の檮原系譜の二系譜です。
  高知県高岡郡檮原町上本村の檮原系譜には二系譜あり同村の庄屋系譜と伝えられている北檮原二神系譜と、村の真ん中を流れる梼原川の南側斜面に居住している南梼原二神系譜があります。
南梼原二神系譜に残されている墓石で最古の人物は元文3年(1738)に没した二神喜衛門の存在が確認されています。庄屋系譜と伝えられる北檮原二神 系譜の墓石は墓地から移転されていて全てを確認出来ていませんが、今後の調査により南梼原二神系譜の時代までの人物に遡る可能性があります。
  問題は梼原二神系譜がこの時代どこからやってきたのかと云う疑問です。土佐 二神系譜のもう一つ小才角二神系譜の傍流なのか、あるいは古代から伊予国と非常に繋がりの深い檮原地域が二神氏も例外ではなく直接入村してきたのか、その場合の動機は何であったのかが今後の解明項目の一つです。
 【梼原二神系譜】 菩提寺・大福寺(修験宗・曹洞宗系) 
 氏神様・三嶋五社神社(瀬戸内海大三島の大山積神を勧請)
 【会報『海の民 ふたがみ』第13号で詳細】



小才角二神系譜

 小才角二神氏は現在の高知県幡多郡大月町小才角に住み着いた初代九良衛門から約400年をかけて発展してきた系譜で、同家に伝わる系図伝書略記「二神家繋書」の冒頭に初代二神九良衛門の名前があり、「但宝永四亥大変令流失於先祖書故詳不相知元祖従豫州来ルト申傳而巳」と記載されています。
 このように、同系譜の先祖書きが、1707(宝永4)年10月4日午前零時に発生した土佐沖を震源地とする大地震、いわゆる「亥の大変」で流失したことをのべています。
 小才角二神氏の初代九良衛門の下屋敷は勿論のこと先祖書きや墓地までが海底に沈んだため小才角二神氏がどのような事情でこの地へやってきたのか定説はありませんが、平成14年11月に開かれた小才角での学習交流会では、秀吉の九州平定に出陣した長曽我部軍勢の動向に関連した推論もあります。
 また、小才角二神氏中興の祖とも云われる二神熊蔵が残した足跡も注目されています。菩提寺は真言宗地蔵寺。
【会報『海の民 ふたがみ』第6号で詳細】


−地図−
小才角二神系譜



豊後森二神系譜

 「豊後森二神氏の始まりは、1601(慶長5)年、来島康親公の移封に従って豊後森藩へ随行した二神田兵衛種則の孫、二神之慶と二神著勝である」とされています。(『玖珠町史』上巻P360)
 その後この地で発展していった系譜には三系譜あり豊後森二神氏系図は、二神通範の次男として二神種房を存在させていますが、その種房の次男に二神著弘がいます。豊後森二神氏400年間を振り返って結果としてこの二神著弘の系譜が今日まで継続して発展してきたと云えます。
 その著弘の子に之慶と著勝があり之慶の系譜が得能二神氏に、著勝の系譜が橋爪二神氏へと様々な変遷を辿りながらも継続してきました。
 一方、林二神氏は通範の三男種春から発展してゆきますが、五代目二神嘉鑑の代に藩財政の困窮により倹約策の一つとして打ち出された「召放ち」となり豊後森を離れて豊後竹田に移住をします。
 その後、豊後竹田では二代しか続かず、絶家となり養子の出里、林家に古文書類が引き取られ今日に至っています。菩提寺は日蓮宗成覚寺。氏神様は末広神社。
【会報『海の民 ふたがみ』第4号で詳細】